”笑み”と”ゆとり”ある生活を育む! 本文へジャンプ
バイオグラフィー


1953.June.11 髭爺は、自分では全く記憶にないので聞いた話によると、宮崎県の都城市という街で産声を上げたらしい。っと言うことのは、今年の6月には53歳。 よくもまぁココまで育ってきたもんだ

略歴 宮崎県出身
京都産業大学外国語学部卒業
Stanford University Wellness Seminar
武蔵野大学人間関係学科臨床心理コース在学中(平成17年4月現在)
大学卒業後、東京で貿易会社勤務を経て、平成2年に故郷の宮崎市で株式健康管理システム研究所を設立。以来一貫して保健事業の企画立案を中心とした健康づくりに携わる。また、レクリエーションをとりれた楽しく遊びながら健康づくりを推奨し、平成12年には、老若男女、障害のある人でも楽しめる呼吸を用いた吹矢を健康づくり生かすために、NPO法人吹矢de元気!協会を設立して、普及に努めている。

●○ 今日までの半生を書き綴りました。
とても長文ですが、読みやすいようにインタビュー形式でまとめてみました。
暇つぶしによろしければ暫しお付き合いください


インタビュアー 本日はお忙しいところ、お時間を割いて頂きましてありがとうございます。早速ですが、プロフィールを拝見しますと、学生時代に輸入会社でアルバイトとなっていますが、これって珍しいアルバイトですよね。偶然なのですか? それともそういう方面の専攻だったんですか?

髭爺 はい、(大学の)ゼミの先生の弟さんが東京で輸入会社を経営されていて(現在も健在)、ちょうど私が3回生のときに3ヶ月ほどアメリカをバックパッカー(リュックひとつを背負ってカネをかけずに旅する人)することになり、出国の際に東京でお世話になったのがきっかけで、アルバイトすることになりました。専攻は英米語学科の国際関係論でした。国際関係というと偉そうに聞こえますが、国際関係もその基幹をなしているのはその国々の人々、つまり人間関係であり、それをひらたく表現すれば男と女の関係論、恋愛論といえば分かりやすいでしょうか(笑)。

インタビュアーなるほど「色っぽい国際関係」がご専門ですか(笑)。でもアルバイトで、インド・パキスタン出張に同行するというのも凄い話ですね。その時の面白いエピソードとかありますか?

髭爺 エピソードですか。う〜ん。いろいろは面白い話はたくさんありますが、何がいいでしょうね(笑)。入国審査で物凄くたくさんの人が行列をなしていたのですが、そこに、一人の役人が寄ってきて、一言二言、強烈な巻き舌の英語でハッキリと??ですが、どうも1ドル札をパスポートに挟めと言っているようでした。次に、タバコに火をつける仕草をするので、百円ライターを差し出したところ、おもむろにポケットにしまいこみ、1ドル札の挟まったパスポートを掴むや否や、行列の先頭に割り込んで、すんなりと通関を済ませることができたのでした。当時まだ1ドルが300円位でしたから、税関職員には相当なご祝儀だったはずですね。

インタビュアー 露骨な賄賂ですね。今でもそういう話はよく聞きますよね。
髭爺 ホテルでコーヒーを頼んだら、缶に入ったインスタントのネスカフェが出てきて、ついてきたミルクは山羊のミルク。砂糖は解ける気配すらないような黒くて硬い、おまけにコショーがついてきたのにはびっくりでした(パキスタンの人は牛乳にもコショーをかけて飲むくらい辛いのが好き)。それとバザーの中は四六時中コーランが流れ、通路という通路の壁は赤い血で染まっていましたね。後でわかったことなのですが、これは緑葉に石灰、木の実などを包み込んで、口に入れて噛むと、赤い汁が出るんですね、それを所かまわず吐き散らすために、血に染まったように見えたんですね。わかりやすく言えば、大リーガーが噛みタバコをかんで吐き出す光景が以前はテレビで時折見られましたが、まさしくあの状況ですね。そんな中で、交通事故で人が怪我して道路に横たわっているのに、誰も助けるどころか、見てみぬ振りをしているので、駆け寄ろうとしたら、駄目だときつく制止されたんですよ。理由を聞いたら、下手に助けたら、助けたあんたが被疑者にされると。声も出ませんでした。その後、何度も筵をかけられた人が道端に横たわっている光景を目の当たりにしましたが、なんともやるせない気持ちでした。それだけ貧しかったんですね。って、面白いエピソードとはずいぶんとかけ離れてしまいましたね。インドはパキスタンと違って牛が神様ですから、道行く牛は我が物顔で闊歩していましたね。これまたいろいろありますが、普通、夏に車に乗るときにエアコンがなければ窓を開けて走りますよね、でもインドでは、窓を閉めて走るんですよ。なぜか、熱風が吹き込んで暑くてたまらないから、窓を閉めて走っていましたね。それと、車にワイパーがついていないんですよ。雨が振ったらどうするのと聞いたところ、盗られちゃうんで付けてないんだそうですよ。もし雨が振り出したらどうすると聞いたら、家にワイパーを取りに帰るか、手で窓を拭きながら運転するんだそうで、なんとものんびりとした時代でした。そうそう、食事は毎日カレーなのですが、外国人には辛すぎるからとヨーグルトをいつも準備してもらっていたんですね、もともと嫌いじゃないので、張り切って食べてたら辛さが歯にきちゃいましてね、食事ができなくなってしまい、げっそりと痩せて帰国した記憶がありますよ。

インタビュアー出て一番困るのはやっぱり食事ですね。それにしても、歯がダメになるような「辛さ」とは凄まじいものがありますね。話を聞いているだけで歯がおかしくなってきました(笑)。ところで繊維関係のものを輸入されていたわけですが、どんなものを輸入していたんですか?

髭爺 当時、フォークロア(民俗学)が流行だったものですから、日本で起こしたパターンで、インド・パキスタンで作られた生地を使用して衣料品を作って輸入してたんですよ。別名ワンウォッシュってアメリカでは言われていましたね。ほかには、トルコから毛皮の商品、ギリシャからはシャギーのコート、モロッコからはバックなど、ほかに香港、中国、フィリピンなどからいろいろなものを輸入していましたね。繊維は繊維でも中国から買い付けをした竹で作ったバンブーウェアは、通関の際に虫がいるとのことで、コンテナごと滅却処分になったこともありましたよ。

インタビュアーそれで、繊維業界の不況とともに輸入から輸出へ転換されるわけですが、唐突に「ブルネイ王国」が出てくるのは?(笑) 国際競争入札とは、何の入札だったのですか?

髭爺 王宮工事の国際競争入札だったんです。これまたゼミの先生からの誘いで、ブルネイ王朝の王宮工事を一手に引き受ける合弁会社を設立するから手伝ったほしいとの依頼があったんですね。っというのも、ゼミの先生が当時国会議事堂のすぐ近くにあるBRビル(結構有名は政治家が事務所を構えている)に研究室を持っていましてね、その研究室に出入りしていた関係者のからの依頼があったとのことでした。当時ブルネイは石油大国(現在もかな?)で、税金のない国といわれているくらいとても裕福な国で、王宮工事に当てられる予算が500億円ともそれ以上とも言われていたんですね。その工事の受注をするための合弁会社設立だったんです。当初の話では九分九厘間違いなく落札できるとの触れ込みで、赤坂にある某超大手ゼネコンの下請けとして合弁会社設立を手伝ってほしいとの要請で参加したんですね。が、結果的に1億円の差で韓国に持っていかれちゃいました。それであえなく計画は頓挫したわけです。

インタビュアー何かドロドロとした話のようですね。さらに突っ込みたいのですが、ここに掲載できなくなると困りますので、これ以上は聞きません(笑)。

髭爺 ブルネイの話が頓挫してからは、さらに変な輸入をしていたんですよ(笑)。今度は「人の輸入」ですよ。労働力の確保ですね。

インタビュアー それが「中国からの留学研修生の受入」というわけですか。
髭爺 当時建設業界では労働力が大変不足していた関係で、中国から土技術研修という名目で中国人を受け入れることになったんですね。ただし、聞こえはいいですが、当時中国は外貨不足、したがって外貨稼ぎのために中国人が出稼ぎをしたかったわけです。こちらも安価で労働力が得られるので双方一挙両得ってところですか。おまけに出稼ぎにきた人との表向きの契約は、一人あたりの月給10万円。たいへん安価。でもね、本人に手渡されるのは2万円〜3万円、残りは中国政府が吸い上げるといった構図になっていましたね。

インタビュアー うっ、国の体制が違うとは言え、理不尽な印象を拭えませんね。
髭爺 でも、衣食住は一応こちら持ちでしたし、中国の給与と比較したら年収4000円が一挙に月収で3万円になるわけですから、大金持ちになって帰国できるわけですね。ただ、数ヶ月滞在すると、現場で聞く日本人の給料を耳にして、どうして給料に差があるのかと抗議を受けて苦労したこともありました。生活面では、宿舎の風呂に日本人といっしょに入るわけですが、洋服を着たまま石鹸を塗って浴槽で洗濯をはじめたり、冷蔵庫はヘルメットやかばんの置き場所、洗濯機で食器を洗ったり、食べ物があわないとストライキを起こしたり、捨ててあるものをなんでもかんでも拾ってきたりと、あまりの文化の違いにとても貴重な経験ができましたよ。一番苦労したのが、入管との折衝でビザの更新、建前と本音が違うわけですから、つじつまを合わせて資料作り、ヒヤヒヤものでした(笑)。

インタビュアー この話もまた「放送コード」ぎりぎりかもしれません(笑)。
当てもなく起業 〜「吹矢de元気!協会」の設立へ結実〜
インタビュアー 「健康に対する新しい予防医学考え方を実践すべく平成2年に起業」ということですが、周囲の反対、あるいは周囲の支援とかについてお話下さい。

髭爺 それはそれはすさまじいものがありました(笑)。
昭和63年12月24日に車の屋根にスキーの板を積んで東京から引き上げてきましたのですが、当時宮崎にはスキー場はありませんでしたし、品川ナンバーの車とくれば、みんなあほじゃなかろか!ってな感じで奇異の目で見られたのを覚えていますよ。
一応事前に事務所として賃貸契約をしていましたので、平成になってからヤマコーインターナショナルという屋号でスタートしたわけです。
しかしそれからが大変でしたね。210日は失業保険がありましたから、なんとか食いつなぎましたが、その後がなかなかで、本当に霞を食って生活をしていたように記憶しています。(笑い)


インタビュアー何の当ても、計画もなかったのですか?(笑)
髭爺 考えが甘かったんですね。当時、健康管理といっても、まだ現在のように自分の健康に対しての意識なんぞまったくといっていいほど定着していませんでしたから、「健康食品はお断り!」「健康だから健康器具は要らないよ」とか、「健康診断を受けているし、病気になったら病院に行くから関係ないよ!」と散々でした。行政もご同様で今が本当に嘘みたいですね。
その間は、収入がないわけですから、父親の土地を担保に資金を借り入れ食いつないでいました。そんな折に高校時代の同級生に「おまえ、暇そうにしているからちょっと手伝え」と呼び出されたのが、(社)宮崎青年会議所の入会面接でした。有無を言わさず入会させられ、高額の入会金と年会費を払わされる羽目になったわけですね。
周囲からはお金もないのに、あんな青年会議所なんかに入ってと、それは冷やかな目で見られる毎日でしたね。しかし変なもので、仕事がない=時間がある=青年会議所の仕事ができるで、卒業まで(青年会議所は40歳で退会しなければならない)の4年間にまちづくりに奔走し、それを通じて得た経験は私にとっては掛け替えのないものとなりましたよ。家族は相当つらい思いをしたかもしれませんが。
そうこうするうちに、東京に兼松が出資した会社でライフチェッカー社とうコンピュータ問診を扱う会社のことを知り、上京して代理店契約に漕ぎ着けたのをきっかけに、株式会社健康管理システム研究所を設立し、現在に至ったというわけです。


インタビュアー 紆余曲折が若干あったものの、「健康事業」の初志を貫徹したわけですね。この事業の動機となった「自分の身体は自分で守る」を実感した具体的な体験をお聞かせ下さい。

髭爺 はい、先ほどインドで歯が腫れて痩せこけたお話をしましたが、その他にも香港で食べた生牡蠣にあたったり、外地では生活環境はもとより考え方や仕事のリズムがまったく違うために、それは酷い経験をしました。
朝はまず時間通りには始まらないのは当たり前。話の途中で突如としてアラーの神に向かって礼拝をはじめるのも当たり前。そのときに悟りましたね。こりゃ日本の感覚じゃ身が持たないとね。「郷にいらずんば郷に従え」先人たちはよく言ったものです。
このような劣悪な環境で仕事をして日本に帰ると、今度は朝夕雑踏にもみくちゃにされ、出社すれば数字でがんじがらめ。体調を崩しても会社は知らんぷり。医者に行けば3分診療で話しすら聞かずに投薬でおしまい。
そんな折に、アメリカではすでに予防医学を取り入れた健康管理を進めていることを耳にしたんです。すぐに、これだ!と思いましたね。これからは病気にならないように、ストレスを溜めないように、何事もセルフコントロールをしないことには、誰も何にもできない、してもくれないとね。


インタビュアーその健康管理を「形」にした「リュウシンLK」を誕生させるまでには、かなりのご苦労があったんでしょうね。

髭爺 リュウシンLKが完成するまでの苦労ですか? 苦労話ではありませんが、リュウシンLKが出来る切っ掛けについてお話をしますと、ある朝食会(30人程度の)の幹事をしていましてね、毎月第一月曜日の朝にホテルの会議室で開いていたのですが、その会の座長が、ミミズに血栓を溶解する酵素があることを発見された宮医大の美原博士その人だったんですね。
ある時その先生と生活習慣病(旧成人病)の話をしていたときに、血栓がなくなれば全身に抹消血管にまで血がいきわたり、新陳代謝がよくなって免疫力の高い身体になるとの話を伺ったのが切っ掛けでした。折しも某製薬会社でみみずを使った健康補助食品の開発が進められていましたので、運良く自社ブランドとして製品の販売が出来るようになったわけです。


インタビュアー なるほど。苦労したのは、その美原教授だったんですね(笑)
髭爺 いやいや、これでも苦労したんですよ(笑)。確かに商品が出来上がるまでの苦労は大してなかったのですが、いざ商品販売となったときに方が苦労でしたね。商品が出来上がって、いろいろなところへ紹介して回ったのですが、健康食品業界の内情を知らずに飛び込んだもので、行くところいくところで商品の話より掛け率の話に終始するんですよ。酷いところでは2掛けでないと販売しないなどといわれて尻込みをしてしまい、せっかくの商品がなかなか日の目を見るまでに至らなかったというわけです。
それで、コツコツと飲んで効果を実感してもらえる人だけに継続的に提供させて頂いていたのですが、最近、どうしてこんないいものを隠しておくんだと苦言をいただきまして、ちょっと考え方が変わり始めたというわけです。
つまりは、リュウシンLKを商品化することよりも、私自身の商売に対する気構えがまったく出来ていなかったということのほうが、苦労した点ではないでしょうか。


インタビュアーレクリエーションに人の心を癒す大きな力がある強く感じた事例をお聞かせ下さい。
髭爺 話が少し長くなると思いますが、保健事業を展開する中で、検診結果の悪かった人に対して、今のうちにお酒、タバコを減らし、体重を落とさないと、このままではあなたは成人病になる確立が・・%ぐらいありますよ。なんて脅迫めいた保健指導を行っていた時期があったんですね。それでよくよく皆さんの声を聞いてみると、分かってはいるんだけど、やめられない。やめられればとっくにやめているよ!というような声が多く聞きます。
そういう寄せられた声を聞いて、なんで自分で分かっていながら出来ないんだろうと考えました。そして自分の気持ちが整理しきれていないでいるのが原因では、と考えるようになり、カウンセリングの勉強をし始め、ある程度のところまで到達したんですが、そこでまたはたと立ち止まってしまうことになるんです。


インタビュアー 何か「壁」を感じたわけですか。
髭爺 えぇ、最近流行りのトラウマですが、このトラウマは本来、誰しも思い出したくない記憶なわけです。でもカウンセリングでは思い出したくもない記憶を呼び起こし、そのときの精神状態をかき混ぜ、あたかも解決できていなかった気持ちをきちんと言葉で整理していくのが、簡単に言えばカウンセリングのやり方なんですね。
でも、私が相談者で昔の記憶を呼び起こされたとしたら、おそらく自分の気持ちを素直に開示できないのではないかと考えたんです。所詮不可解な人の心を未完成な言葉で捕らえようとするわけですから、そこには無理があると強く感じたわけです。

インタビュアーなるほど。そもそも「捕らえようとする」こと自体に問題があるというわけですか。
髭爺 そうです。そうした悶々とした時期を過ごすうちに、高齢者の方々と健康づくり教室を開くことになり、レクリエーションをして楽しく遊んでいたんですが、高齢者の楽しそうな笑い顔が大きな「気づき」のキッカケとなったわけです。ストレスを抱えた人でも楽しいときは笑う。何かに没頭しているときは心の悩みを忘れている。人間は辛いことより楽しいことを求める性質を持っている。
レクリエーションは心気一新、改めて創造するという意味ですが、レクリエーションは人間の行動欲求に基づいて成り立っているということに気が付いたんです。つまり、人と触れたい人は、例えばダンスを楽しめば、人と触れ合える。何か活動をしたい人はゲームやニュースポーツを楽しむことで、身体を動かすことが出来る。なにかを作ってみたい人はクラフトを楽しむといった具合にね。


インタビュアー つまり「捕まえる」のではなく、「引き出して」あげるということですね。
髭爺 レクリエーションはスポーツ(競技で順位を争う・テクニックを要する)と違って、誰でもが手軽に参加し楽しめるということ。レクリエーション活動に初めて参加する人は、誰しも心を閉ざして、何をやらされるんだろうと疑心暗鬼で参加する人が多く見受けられます。しかし時間の経過とともに、自然と自分の凝り固まった気持ちが解き放たれ、周りの人と交わることで、自然と笑みがこぼれ、人の気持ちを受け入れる余裕が出来てくる、とても抱擁力のある不思議な力を備えているのがレクリエーションだと考えています。言うなればレクリエーションは奥の深い科学だと思います。

インタビュアー それで「奥の深い科学」の真骨頂が「吹矢de元気!協会」の設立なんですね。
髭爺 吹矢をどうしてはじめようと思い立ったかと言いますと、スポーツ・レクリエーションにはいろいろな種類がありますが、その中で呼吸を動力源にしたものは、吹矢以外にはなかったということです。そして、ほかの種目であれば、どうしても参加する人に制限が付きまといますが、吹矢は生きている人であれば、寝たきりの人でも、障害を持った人でも、誰でもふっ〜と息を吹きさえすれば、矢が飛んでいって的に刺さる。そして一様に爽快感を味わうことが出来るニュースポーツだということです。
最初は「え〜!こんなに離れたところから吹くの」「肺活量がないからうまく飛ぶだろうか」とという不安が先に立ちます。でも、吹いてみると思いのほか速いスピードで矢が飛び的に刺さる。途端に不安であった顔が笑顔に変わる。今度はもうちょっと真中を狙って見ようか!なんてね。見事に心の動きが見て取れるとても不思議な力を持っていますよ。なによりも単純なのがいいのかもしれませんね。そして、子供から高齢者まで老若男女がハンディなしで3世代いっしょに楽しめる。


インタビュアー 息をしている人なら誰でもできる。この発想は凄いと思います。
髭爺 普段はまったく無意識にしている呼吸を、意図的に行うことで、体内に淀んだ空気を排出し、新鮮な空気を灰の奥深く送り込むことで、新陳代謝が促進され、自然と免疫力が向上していきます。そのときの消費カロリーは約160kカロリーにも達するといわれており、ウォーキング30分程度行ったと同じくらいの消費カロリーがあります。加えて、普段使わない筋肉を使うことにより、高齢者の方はとかく緩みがちなお尻の筋肉(肛門筋など)や腹筋が刺激されることにより、予期せぬ効果が期待できるわけですね。
また、子供たちは危険を伴うことをしっかり認知した上でルールを守ってプレーを楽しまなければいけないので、情操教育にはもってこいだといえます。最後に、大人は普段のストレス解消にはもってこいでしょ!


インタビュアー 今後の「吹矢de元気!協会」の活動予定をお聞かせ下さい。
髭爺 現在の活動は、各市町村、社会福祉協議会、高齢者の施設などで健康づくり・生きがいづくり、リハビリの一環として役立てて頂いています。また、レクリエーション大会や職場での福利厚生の一環として楽しんで頂いています。
今後のビジョンとしては、現在は宮崎県と佐賀県、大阪府、山形県、岡山県、福岡県などででおもに活動を展開されていますが、ただし、まだまだヨチヨチ歩きですので、まったく普及に手がつけられていないということです。したがってこれから積極的に各地への拠点作りとスタッフの養成をおこない、全国へ普及を図っていきたいと考えています。
そこでこのたび、特定非営利活動法人 いわゆるNPO法人としての設立申請を行いましたので、認証の暁には、より行動的な活動が展開できるのではないかと考えています。

また、障害を持った子ども、自閉症の子ども、喘息患者人などの幅広い人たちを対象に、「海」を活用した保健事業にも積極的に取り組んで行きたいと計画を進めています。


インタビュアー  2006年から新しい事業を始めたとのことですが、お聞かせください。
髭爺 はい、トップページでも述べましたが、障害児・者が快適に生活を送るために欠かせない、体の一部でもある補装具が、その人にフィットしていない補装具の使用を余儀なくされている現実に、何とか改善できないものかと考え、補装具製作ができるように「ゆとりすと工房」を開設し、それらの製作及び取扱を始めました。

インタビュアー そうなんですね、それでご自身で補装具の製作を始められたのですか?
髭爺 はい、座位保持装置=姿勢を保持するための椅子の製作は殆どの製作工程をこなします。また障害先進国からの輸入された車椅子なども取り扱っています。新しいところでは、強化ダンボールを使用した遊戯や椅子・机なども製作します。

インタビュアーそうなんですね。ところで、製作にあたり苦心することなどありますか?
髭爺そうですね、座位保持椅子は完成までに数ヶ月を掛けて製作するのですが、その間子どもさんの成長が著しく、採寸・採型をしたものとサイズが合わなくなってしまうこともあるので、いかに修正を行うかが非常に大きなポイントになります。従って、納品までの期間に最低でも1ヶ月間は試用期間として実際に日常生活で使用してもらってから、最終完成納品という工程で製作に当たっています。



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